一人ひとりが人間らしく、心豊かに働き、生きるために

UAゼンセンには2200を超える労働組合が加盟しています。皆さんの職場の労働組合もその一つです。各組合では、会社に賃金や労働条件の改善を要求し、組合員と家族の生活の向上に努めています。働く者が労働組合をつくって活動する権利を定めた「労働組合法」ができて、2025年で80年を迎えます。そこで今月から10回連載で、UAゼンセンの松﨑基憲インハウス弁護士が労働組合法について解説します。労働組合の重要性に改めて目を向けてください。

【労働組合法】
労働者が団結して労働組合を結成し(団結権)、会社と対等な立場で交渉し(団体交渉権)、正当な要求を貫くためにストライキなどを行う権利(団体行動権)を定めた法律です。「労働三権」は、日本国憲法に労働者の基本的権利として規定されています。

日本で労働組合法が成立したのは終戦後の1945(昭和20)年12月です。日本国憲法の公布(1946年11月)よりも先でした。
戦前も、最盛期には1000近い労働組合がありましたが、治安警察法などによって弾圧されていました。こう聞くと、戦前の労働組合はあまり活動ができていなかったように思うかもしれません。しかし、実際には戦前にも労働争議は多く発生していました。それだけでなく、帝国議会(現在の国会)では、労働組合法をつくろうという議論が約10年間続き、1931年には労働組合法案が衆議院で可決されています(最終的に不成立)。労働組合を認めていこうという動きが確実にあったのです。
なぜ、弾圧のさなかで労働組合法をつくろうとすることができたのか、労働組合法案の中身はどのようなものだったのか、見ていきましょう。

日本で最初の労働組合は、1897(明治30)年に結成された「労働組合期成会」という組織でしたが、弾圧され1900年に消滅しました。
日露戦争をはさんで1912(大正元)年、鈴木文治によって「友愛会」が結成されます。この友愛会が、現在のUAゼンセン、連合につながる日本の労働運動の源流です。当初15人で発足した友愛会は、第一次世界大戦の戦時需要や物価高騰などを背景として、1916年には1万人、1918年には3万人に拡大していきます。そんな折、日本で労働組合法をつくるきっかけとなる事件が発生します。ILO労働代表問題です。

友愛会を創設した鈴木文治

日本の労働運動の源流「友愛会」

1912(大正元)年、劣悪な労働者の処遇を改善するため労働組合の結成を志した鈴木文治は、官憲からの弾圧を予期し、表向きは親睦・共済・研究などを行う団体「友愛会」として活動をスタートした。左は、友愛会が産声を上げたユニテリアン教会・惟一館。

第一次世界大戦の終結後、国際的な労働者保護の運動が高まり、国際労働機関(ILO)が設立されました。世界大戦では連合国側で戦い、戦勝国となった日本は、1919年にワシントンで開催された第1回ILO総会に日本代表団を送ります。代表団は政・労・使(政府・労働者団体・使用者団体)の三者構成にする必要がありましたが、日本政府は友愛会などの労働組合の了解を得ずに労働者代表を選んでワシントンに送ってしまいました。これに対し、友愛会の鈴木文治が「世界を欺くもの」だと抗議。さらに友愛会の抗議文が総会に届けられたことで、日本代表団はワシントンで大恥をかくことになりました。

ILO総会での経験から、日本政府は労働組合の存在を認める必要があると考えるようになりました。翌1920年から1931年にかけて、政府内で複数の労働組合法案がつくられ、一部は帝国議会にも提出されたほか、野党も独自に労働組合法案を提出しました。
当時の複数の法案をいくつかのテーマごとに見てみましょう(下表)


友愛会館には、UAゼンセン東京都支部や労働運動の貴重な資料を展示する「友愛労働歴史館」が入っている

日本労働運動発祥の地

「友愛会」が誕生したユニテリアン教会・惟一館の跡地(東京・芝公園)には、新たに建設された16階建ての友愛会館と日本労働運動発祥の地の石碑が建つ。

友愛会館の正面には、友愛会百周年(2012年)を記念したモニュメントが輝く

労働組合法案の議論は10年に及んだ

折しも、時代は大正デモクラシーが最高潮を迎えていました。自由を求めて、政治運動や社会運動、労働運動などの大衆運動が盛り上がりを見せるなか、帝国議会は1925(大正14)年、アジアで初めて満25歳以上のすべての男性に選挙権を与える普通選挙法を成立させました。つまり、男性のみとは言え、納税額に関係なく労働者の投票権が認められ、働く者の意見が政治に届きやすくなったのです。

弾圧に屈した三菱・川崎闘争

団結権・団体交渉権・団体行動(争議)権を求める闘争は、友愛会の活動が活発だった関西から始まった。1921(大正10)年、神戸の三菱・川崎造船所の労働者3万人が組合活動の自由を求めた大争議は、軍隊まで出動して鎮圧され、労働側の惨敗に終わった。

戦前、最後に帝国議会に提出された労働組合法案は1931(昭和6)年のものです。衆議院で可決されましたが、貴族院であっさり「審議未了」の廃案とされ、戦前の労働組合法実現の試みは終了します。

もし、1931年に労働組合法が成立していたら、どうなっていたでしょうか。1931年提出の法案には、組合にストライキの賠償責任を取らせたり、労働協約の効力を認めなかったりと、重大な欠陥がありました。その意味では、成立しなくて良かったのかもしれません。

一方で、戦前に労働組合法が成立していれば、軍国主義・全体主義が台頭した1940(昭和15)年時点においても労働組合が壊滅状態にならずに済んだかもしれません。そして、戦後の労働組合の勢力もいまと変わっていたかもしれません(戦前の組合員数のピークは1936年の42万589人、組織率6.9%。1940年は9455人、組織率0.1%。1944年には皆無となる)。また、現在のような企業別組合中心ではなく、職業別・産業別の組合が中心となっていた可能性が高いと思います。

歴史に“if”(もし)は禁物と言いますが、間違いなく言えることは、1920年から1931年までの約10年間、労働運動のリーダー、学者、政治家達が「労働組合法はどのようなものであるべきか」を議論し続けていたということです。
結局、連載第1回は労働組合法が成立しなかったことについて書きました。戦前は成就しませんでしたが、当時の議論は戦後わずか数カ月で成立した「労働組合法」に生きています。

次回は、戦後の、つまりいまわれわれが使っている労働組合法の成り立ちを見ていきます。

(つづく)

UAゼンセン インハウス弁護士 松﨑 基憲 文

まつざき もとのり。1979(昭和54)年生まれ。函館の高校を卒業後、アルバイトや臨時職員など、いわゆる非正規で数年間働く。安定した生活を求め、2007年司法書士試験合格、ホームヘルパー2級取得。2009年広島大学法科大学院に入学し、選択科目として労働法を学ぶ。2012年司法試験合格。2015年4月からインハウス弁護士としてUAゼンセンに勤務。