“歴史を受け継ぎ、果敢に改革を進める”

「いつも元気で明るく、つねに前向きな人」。永島会長の人柄を尋ねると、必ずそんな人物評が聞こえてくる。そのとおり、明るく飾らない方である。「明るく元気なことは大切だと思います。とある先輩からは『蛾でも明るいところに寄ってくる』と褒められました」とは本人談。

生まれは、大阪府高槻市。大学時代は新聞学を専攻し、ジャーナリストを志したという。現在は千葉市在住。趣味はインドアからアウトドアまで幅広く満喫するタイプ。読書を楽しむ一方で、3日以上の連休が取れれば、国内外を問わずぶらりと旅に出るほどの旅行好きでもある。

1993年、学生時代のアルバイト経験をきっかけに、ニチイ(後のマイカル、現イオンリテール)に入社。入社後は、大阪府や兵庫県の店舗で、多忙ながらも充実した毎日を送るなか、1999年から組合活動に携わる。以降、25年間にわたって、持ち前のポジティブ精神を武器に、組合活動・労働運動に全力を尽くしてきた。

しかし、四半世紀にわたる組合活動・労働運動のすべてが順風満帆に進んできたわけではない。
とりわけ、2001年9月14日、マイカルの経営破綻は忘れられない経験となったという。後にこのときの体験を綴った論文は、第5回山田精吾顕彰会「論文の部」(現教育文化協会主催「私の提言」)で優秀作品を獲得した。本論文のなかには、「本当に悲しい団体交渉だった」「果たしてわれわれは必要とされるのか?」「真のリーダーは孤独なのかも…」など、率直な思いが並んでいる。「ゼンセン同盟(当時)の先輩方や仲間達に助けていただき、皆で一丸となって危機を乗り越えることができました。また、このときに『ゼンセン同盟ってすごい組織なんだ』と実感しました」と語る。

“仲間達の助けと励ましが糧に”

UAゼンセン会長就任にあたり、「このときに私自身が実感した“ゼンセン”の良い部分をしっかりと継承し、さらに発展させていきたいと思っています」と力を込める。

また、とくに影響を受けた人物として同じニチイ出身の落合清四元UIゼンセン同盟会長を挙げる。「落合先輩には、つねに『天下国家』の視点、つまり『日本ですべての労働者が平和で民主的な環境のもと、豊かに暮らしていくために、私達の労働運動はなにができるか』ということを明確に教えていただきました」と振り返る。また、宇佐美忠信元ゼンセン同盟会長の「足は職場に、胸には祖国を、眼は世界に」という言葉にふれたときには、「労働運動でやるべきことが、この言葉ですべて語られている」と思わず心が震えるほどの感動を覚えたという。

「いま、“社会的な賃上げ”の必要性が増しています。激しい国際競争のなかで、物価上昇を上回る実質賃金の引き上げを実現し、それを日本全体にあまねく広げるためには、これまでの個別企業内の労使交渉に加え、政労使による話し合いといった新たな取り組みを深化させ、社会システム自体を変革することが重要です。そのために、労働組合・産別組織の果たす役割は非常に大きいです」と決意を込める。諸先輩方の教えは、いまでも永島会長の考え方の基盤として生き続けている。

“一つでも多く課題を解決したい”

「リーダーに一番大切なことは、『課題を解決すること』だと思います。新たな課題を見つけること、解決の方向性を示すことも必要ですが、やはり一つでも“課題を解決する”という形で結果を出す必要があります」と言い切る永島会長。

今定期大会の就任挨拶では、「組織化」「賃上げ」「政治」の3点を挙げた。「UAゼンセンの長い歴史のなかで、守り続けることと果敢に変えることを峻別しながら、UAゼンセン一丸となって前進していきたい」と決意を語る。

一朝一夕には解決できない大きな課題を前にしても、持ち前の明るさ・前向きさには一点の曇りもない。「より良い方向を目ざして変えるのであれば、仮に失敗しても、そこで修正すれば良いと思います。まずは、失敗を恐れずにやってみることです」と微笑む。

最後に、「今後、ますます労働組合の存在意義は高まり、社会に必要とされる存在になると思います。私達UAゼンセンには、年齢や性別、国籍、働き方が異なる190万名の仲間がいますが、皆さんにも、ぜひいろいろな挑戦をしてほしいです。私もどんどん挑戦したいと思います」と締めくくる。

どれほど困難な課題が待ち受けていても、解決を目ざし、持ち前のポジティブ精神で、UAゼンセン全体を太陽のように照らしてくれることだろう。